夏休み暇だからブログ始めてみる

夏休み暇だからブログ始めてみる。基本的に思ったことをただつらつら書きたい。

論理と感情は相反しない 〜感情論ってそんなに悪いの?〜

 

感情論とかマジでクソ。

 

なんて思っていた時期が僕にもありました。

 

スタバで勉強して何が悪いの?←感情論抜きで論破できない件

http://chomatomesh.blomaga.jp/articles/12984.html

 

一般的に、というか特にネットでは感情論というのは嫌われる傾向にある。

そもそも感情論ってなんなんだってことなんだけど、wikipedia先生によると

感情論(かんじょうろん)とは結論を支える最大の論拠が自身の感情であるような議論のこと。

論理的整合性より大衆的感情が優越すると思い込む発話者が、他者を巻き込んで渦巻く集団心理の一つでもある。

しばしば対象への無理解から引き起こされる。ヒステリーと同義であり、常に否定的に捉えられる。 

ってことらしい。

 

冒頭のスレでいうと、

「スタバで勉強する奴とかクズだろ。なんでかって?俺が嫌いだから」って感じで「クズ」の論拠が感情からきているのを問題視しているんだと思う。

 

スタバでドヤ顔したい側からすると、感情論で自身の行動を否定されるのは腑に落ちないってことだよね。それはすごいよくわかる。

 

でも、最終的に行動の善悪を判断するのって感情になっちゃうから、最近の僕は感情論を持ち出さずに他人の行動を否定するのって不可能なんじゃないかと思うようになった。

これを言うと他人の行動を否定しなきゃいいんじゃないかって思われるかもしれない。スタバでドヤ顔ぐらいなら否定しなきゃいいとは思うんだけど、他人の行動を否定できなくなってしまったら法律だとか憲法だとかが一切作れなくなっちゃうから大問題になる。

 

やっぱりマナーとか倫理とか道徳って基礎のところが人間の感情だから、感情論が入ってくるのは仕方ないんじゃないかって思う。「なんで他人の物を盗っちゃいけないか」「なんで他人を傷つけちゃいけないか」っていうのは、色々理屈をこねることもできるけど、最終的に感情論になっちゃうし。

ここでもwikipedia先生の力をお借りして、「倫理学」のページを一部抜粋すると

道徳とは理性によりもたらされるものであるのか、感情によってもたらされるものであるかについては議論が分かれている。

ということらしい。

まぁwikipedia先生によると実際に道徳は感情からきていないとする人もいるみたいだけど、僕は道徳は感情からきていると思う派なので、それとして話を進める。

 

 

こんな感じで感情論ってのはときに必要になっちゃうもんだと思う。だけどもっと問題になるのは、論拠が感情であるのに加えて、さらに論理的整合性がとれていない場合だと思う

 

「ヨソはヨソ、ウチはウチ → 〇〇君は△△点だったのにアンタは…」なんていうカーチャンとか、「なんでこんなミスしたの? → 言い訳すんなよ!or 屁理屈言うなよ!」なんていう上司とか、もはや感情をぶつけたいだけで論理も理屈もへったくれもないような言葉をぶん投げてくる場合のこと。ここまでくると本当にwikipedia先生のいうようにヒステリーとしか言いようが無い。感情論の中でも大物。

 

これに対して昔は「ふざけんなよ!○○って言ってたじゃん!!」とか思ってた。っていうか今でも思う。僕は論理的なのが綺麗だと思うし、好きだから。

でも、ここまで整合性を欠いていると、「あぁ、この人は整合性のある議論なんて気にしていなくて、僕を奮起させるんだったり、咎めたりしたいがためにこの言葉を言っているんだな」ということが頭で論理的に理解できる。だから、実際にこのような言葉を言われたときに冷静に論理的に判断するのは非常に難しいんだけど、論理的に考えれば相手は感情論に走っているだけなんだと理解することができる。

 

「相手が言っているのは感情論である」ということを認識して、それを冷静に俯瞰できるようになれば少しはストレスは和らぐんじゃないかなぁ…。

 

 

とここまで自分を諭すように書いてもやっぱこんなカーチャンや上司は許せない^^;

許せないのは感情からくるもので、やっぱり人は感情なしでは語れないなと。

 

論理と感性は相反しない (講談社文庫)

論理と感性は相反しない (講談社文庫)